働くピアニスト・抗がん剤との闘い記録

働きながら、ピアノを弾きながら、抗がん剤に挑戦中

友達への告知について

またまた間が空いてしまいました。昨日、3クール目が始まりました。日を追うごとに、身体が薬に慣れる部分(身体が楽になる部分)と、薬が蓄積されていく部分(重くなる症状)があるように感じます。
たとえば私の場合、倦怠感や発熱は、1クール目が一番多く、今はほとんど出ません。だるくて1日寝ている、ということはまったくなくなりました。その代わり、足のしびれは少し悪化してきました。まだ歩けないほどではないけれど、しびれの範囲が広くなり、しびれ自体も強くなってきたような気がします。ただし、「手」は今のところ何ともありません!

私は友達や知人にはほぼ病気のことをオープンにしています。もともと隠し事が苦手なのも理由の一つですが、母の最期のときのある経験があったからです。

母は今から15年前に亡くなりました。そのだいぶ前から病気になっていて、亡くなる前年、まさかの私の病気の告知の日(私の告知は午前中だった)、まったく同じ日の夕方に「あと半年くらいです」という告知をされました。今考えると、父と弟が気の毒です。
母は病院が嫌いで、抗がん剤も途中で止めてしまっていました。1年くらい咳がひどかったのに病院に行かず、どうにもならなくなって病院へ行ったときはもう手遅れでした。

普段から親しくしていた一部の母の友人たちには状況を話していて、その方たちは頻繁にお見舞いに来てくださっていました。特に忘れられない(忘れてはいけない)のは、Tさんという方です。
Tさんは近所の方で、元看護師さんでした。本当に天使のように心の優しい人で、文字通り毎日病院に来てくれました。お見舞いというより、ずっとそばにいて、脊椎転移のために麻痺してしまった母の足をずっとマッサージしてくれたり、慣れない研修医の先生に一言いってくれたり、楽しそうに母に話をしてくれたり、あらゆることをしてくれました。

そして、母の別の友人にAさんという人がいました。Aさんは大学の同級生です。母は絵描きで美大出身で、Aさんとは美大時代の友達でした。長い人生、一緒に展覧会をやったり、大人になってからもお互い刺激し合って勉強したりと、普通の「大学の同級生」より濃い関係だったと思います。
母はかたくなに、学生時代の友達には「知らせないでほしい」「会いたくない」と家族に言っていました。元気で活躍していた頃を知っているから、今の姿を見せたくなかったのだと思います。Aさんには「病気が悪化して、あまり良くない」ということは伝えてありましたが、やっと会ってもいいと母が言ったのは、亡くなる数日前でした。
Aさんは地方から上京してくださって、母に会ってくれました。そのときの様子が今も忘れられません。驚き、取り乱し、号泣していました。母の意志に反してでも、もっと早く知らせればよかった、と思いました。

Tさんはいまだに母のことを1日たりとも思い出さない日はないとおっしゃっていて、命日には必ず母の大好きだった「ミモザ」を持ってきてくださいます。母が亡くなり何年も経って、初めて私のコンサートを聴きに来てくれたとき、コンサートの間中ずっと泣いていました。「Kさん(母)にも聴かせたかった」と思ったそうでした。でも、母のことを話してくれるとき、Tさんは笑顔で晴れやかな懐かしむような表情です。


TさんやAさんを見ていると、人が亡くなるとき、家族が一番悲しむというのはある意味真実だけど、「友達」が亡くなるというのはまた違った辛さがあるのだなと感じます。私にとって母が亡くなることは、順番どおりのことなので、もちろんとても悲しいことではあったけど、「仕方がない」という思いがありました。
一方の「友達」というのは、年が同じだったり近かったり、ある意味「自分」を投影する対象でもあり、その「死」からは「自分と死」ということを考えさせられるのではないでしょうか。そういう意味で、家族の死よりもっとリアルに死を感じる体験なのかもしれません。

最近、ある有名人の方が亡くなって、そのお友達のコメントをネットで見かけました。「いつも前向きなメールをくれてたから、またきっと元気に復活してくれると信じていました。突然の訃報にショックを受けています」といった内容でした。このコメントは、まさに、病気の詳細を知らなかったAさんの気持ちを表していると思いました。


どこまでの関係の人にオープンにするかは、人それぞれだと思います。でも私は、自分の友達にこんな思いをさせたくないです。私はまだまだ生きる所存(笑)ですが、進行している治らない病気にかかっていて、皆よりは早めにいなくなるかもしれない、ということを知らせておきたいです。
そんなわけで、自分の病気のことは大事な人たちに知っておいてもらいたいと思って、ほぼオープンにしている次第です。